2016年09月09日

一生涯 身だしなみに気を付ける

年寄りになったら、身なりはどうでもいいようなものですが、服装をくずし始めると、心の中までだらだらしても許されるような気になるものです。

比較的若いうちから身だしなみには気をつけたいものです。

だらしない服装をすれば、楽かというと必ずしもそうではないのです。

くずすほうは、ほうっておいても自然にくずれます。

体力がなくなり健康が悪くなれば、誰に言われなくてもくずれてしまいます。

それ以前は、できるだけ自分を厳しく律する方向に向けておくことが大事です。
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2016年09月08日

老いに対して自然であること

誰がこのような老いの姿を決めたのか。それはあなたでもなく、私でもありません。

目は二つ鼻は一つと、決められたように、理由もなく老いはある一つの姿をとるのです。

自分がこの形態を選んだのだと思えば、愧(はず)かしがらねばならないかもしれません。しかし、与えられた老いの形に何ら抵抗する必要はありません。

時々、その年とも思えないほど若く見える人がおります。ところが、それは決して若さを保とうと思ってそうなっているのではありません。若さを保とうとなど考えもしないほど、ある生活に打ち込んでいる人が、たまたまそうなっているだけなのです。無理に若作りする必要はありません。

老人とは、老いという特徴を持っていてこそ老人なのです。

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2016年09月07日

身の回りの物を新しいものに取り換える

いわゆるむさくるしい、とか、じじむさいとかいう表現は、老人自身の心身の状態とは別に、身のまわりに変化が少なくなって、停滞した感じを持つようになった時に使われます。

老人になると、着るものも減らず、汚れも少ないので洗濯もあまりしなくてよくなります。また、社会生活から奥へ引っ込むため、貰い物も減り、お客のために家の中をきれいにするという必要も少なくなります。すると、まわりにあるものは、すべて古色蒼然としたものばかりになります。

あと半世紀も生きるわけじゃないし、今あるだけでたくさんという気もわかるし、いつまで生きるかわからないから金は使えないという論理もわかります。ところが、小さいものを、ちょっとずつ新調することを自分に義務づけると案外と家の中に老人くささがなくなってきます。

歯ブラシ、座布団カバー、枕カバー、スリッパ、茶碗など、また日常着るふだん着などというものは、それほど高価なものではありません。少し贅沢でも、新しいものを入れると、同じ部屋でも気分が変わって来たように感じられるものです。
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2016年09月06日

淡々と受け入れて生きる

心の不健康は、「他者を責める」か「自己を責める」か、そのどちらかによって生まれます。他者を責めれば、攻撃的になり、時には殺人を犯したり、人を傷つけたりします。自分を責めれば、ウツ状態になります。

そのどちらも、自分に降りかかる現象を否定しているところから始まります。そして、「なぜ?」「誰のせい?」と問いかけるようになります。

聖書の中に「汝、なぜか、なぜかと問いかけるなかれ」という言葉があります。よく相談や質問される方は。「なぜ、なぜ」とおっしゃいますが、問いかけた瞬間、問いや相談の形をとって、その現象を否定しています。

自分の身に降りかかってくることについて問いかける必要はありません。それはそれでよしと、そのまま受け入れて生きていくと楽なのです。

たとえば、不登校の子供がいたとき、「これは誰のせいか」と追求しはじめてしまうとキリがありません。夫が怒鳴っているから、夫婦関係が悪いから、甘やかして育てたから・・・。原因を求めても問題は解決しません。

何も責めず、現象を否定せず、そのまま受け入れてただ淡々と生きていけばそれでいいのです。
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2016年09月05日

人生にムダはない

リストラや倒産が理由で会社を離れた人は、自分がどんなにがんばっても、結局は会社の都合に振り回されるということを身を持って経験したのです。

それならば、これからは「自分のために会社は存続する」と割り切って仕事を探せるはずです。「会社のために存在する自分」をやめればいいのです。

「がんばらなければいけない」とか「誰からも好かれるよう努力しなければ」とか、これまで当たり前だと思われてきたことを、一度「もうやーめた」と捨ててみることです。やめることで、今まで見過ごしていた大切なことに気づき、より多くのものが得られるかもしれません。

国が自立支援に動き出したニートも、やれ「会社に行け」「学校に行け」と無理に追い立てる必要はないかも知れません。それで生きていけるなら、それもまたその人たちの人生です。

働く自由、働かない自由もあります。彼らなりの、無理してまで何かを望まないという姿勢から、お金や出世のために働くだけではない新しい仕事の場が見つかるかもしれません。

「こうでなければならない」というこだわりを捨ててみましょう。会社で偉くなることが立派な人生であるという価値観もすでに壊れ始めています。

会社や官僚のトップが最後の最後に逮捕という逆転劇を演じさせられる時代です。大企業のお偉いさんが打ちそろって頭を下げる光景はもう見飽きています。

それならば、これまで挫折や失敗、マイナスと思い込んできたことも、どんなにつらいことであっても、貴重な体験をしたと開き直って生きたほうがいいのです。その体験は、他の誰でもない、あなたにしかできなかったことなのですから。

それは、いつか必ず、人生のどこかでプラスになります。人生にはムダなことなど一つもありません。

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2016年09月04日

過去(の経験)は明日への力

どんな人生であれ、すべてがつらく悲しいことばかりではありません。どこかにきらきらと光る時間をかかえているはずです。

最もつらいときに、記憶の奥にあるそうしたきらめきを宿した時間を引き出してこられたならば、きっと前へ一歩を踏み出す力が湧いて来るでしょう。

一瞬一瞬を懸命に生きた自分が、未来の自分をしっかり支えてくれるのです。

今を懸命に生きることは、未来を生きる力につながっています。自分の生きた過去はすべて、明日を生きていくための力になるに違いありません。もちろん、その力は過去の時間的な長さに比例するものではありません。どれだけ充実して生きた一瞬があったか、その一瞬一瞬が大きな力を宿しているのです。

どんなに過酷な状況に身を置いても明日に期待をかける心は失いたくありません。
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2016年09月03日

死に目を向ける

「人は生きてきたように死んでいく」と言われます。

死を感じ、ひるがえって生を確かに実感することが、生を充実させ同時に死に大きな実りをもたらすのです。

死を見つめることなしに、生を存分に味わうことはできず、生きていることの喜びも実感できません。

互いの心を解せず、すさんでいく現代人の心は、生と死の実感の乏しさを映しているようです。

死は、恐れて遠ざけるべきものではなく、つねにたずさえておくべきものなのです。そうすることではじめて、生はいきいきと実感されるようになるのです。
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2016年09月02日

一瞬、一瞬を生きる

延命医療というのは、命をただ引き延ばしているだけであって、その人にとってつねに最も大事な「生きる」ということに目を向けてはいません。そのために、命の質を著しく損なう暴力となることもあります。

けれども、死は本来、看とる者すべてに、その人の生のうちに初めから死があったことを悟らせるほど自然なものなのです。

存分に生きてきた人は、生まれてきたことへの感謝で人生をしめくくることもできます。残される者たちは、人との出会いの喜びと、今こうして生きているということの喜びを、、以前にも増して深く感じとれるようになれます。

年老いてから迎える死は、まるで古木がゆっくりと立ち枯れていくように無理がなく、苦痛もともなわないそうです。それもまた、なんと有難いことでありましょう。

家であろうと、病院であろうと、愛する人たちに「ありがとう」を伝えて旅立てるならば、それ以上に望むことはありません。

「生まれてきてよかった」と心を込めて言えるように、生きている限り、この一瞬一瞬を存分に味わうことに力を出し惜しみしないようでありたいものです。

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2016年09月01日

最も変化と可能性に富んだ時期

現役時代はとくに、会社や役所や学校でのきめられた歯車のひとつになって活動することが求められ、また家庭での雑事や子育てに多くの時間を費やさざるを得ず、純粋に自分のためと呼べる時間がとれません。

ところが、六十代に入るあたりから、人生を取り巻く外的条件の様相が変わってきます。そうした外的条件よりも、これからの人生を当人がどうとらえるかが問われてきます。

これからの生き方は多くの人と共通点が多いことよりも自分の固有なものとして作り上げていくことが求められるようになります。それまでの生き方には少なからず制約を与えていた義務やノルマから解放されて、人生がその人のデザインした通りにかたちをなして現れます。

一人ひとりの生き方が、外的な条件によらずこれほど幅を持つようになる時期は他にはありません。

定年を機に始まるこの新しい人生を、心躍らせて迎える人があるかと思えば、いったいどう過ごしていけばいいのか戸惑う人がいるのは、ひとえに老年期のとらえ方の違いによるものです。

自分自身の老年をどうとらえるかで、日々のあり方がまるで変わってしまいます。

それは言い換えると、人の一生の中で最も変化と可能性に富んだ、自分らしく生きられる時期が老年期だということです。

老いをよりよく生きるというのは、いわば人生から与えられた最終課題なのです。
posted by 田村 季山 at 03:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 健康・老い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする