2016年10月31日

視力、聴力など衰えたら早めに手入れをする

耳が聞こえないことは、決してその人の知性が劣って来たことではありません。しかし、会議とか、交渉とか、細かい音声が聞こえないとすばやく反応できない場には向かなくなったのです。だから、そのような任務にしがみつくべきではありません。

しかし、耳が遠いということは、その人が思考したり、書いたり、手作業をしたりすることには全く差し支えないでしょう。だから、自分にとって得手の分野で働き、活動をすることを楽しみにすべきでしょう。その人にあった道というものはいつでもどこでも残されているものです。

めがねや補聴器は、多少、無理してもお金を出すことです。
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2016年10月30日

老化をさらりと受け止める

自分のためにつかえる時間はたっぷりあっても、なにしろもう若くないから・・・。どうしてあなたはため息をもらすのでしょうか。あるいは、自分は誰からも求められない無用な人間になってしまった、と肩を落としてしまうのでしょうか。

それは、心身の機能の衰えという意味の老化を、気持ちまでもちこんでしまっているのです。

誰であろうとも老化を避けることはできません。けれども、老いというのはそのとらえ方をいうのであって、ひとりひとりその姿は大きくことなります。老いと聞いて、多くの人は老化にともなうマイナスのイメージばかり思い浮かべるようですが、老いの姿はじつにさまざまなのです。

老化をさらりと受けとめる。これは老化だなと感じたら、ただそれだけ。それ以上くよくよしたり思いわずらったりしないこと。もの忘れはするけれど、大事なことや関心のあることは決して忘れない、と平然としている余裕が大事です。
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2016年10月29日

臆病は禁物

若い人との出会いに臆病は禁物です。煙たがられるだけではないかと気を揉むことはありません。

老いた者が必要以上に意識すれば、そのぎこちない態度に反応して、若い人も思わず身構えてしまいます。

なにか気の利いたことを彼らに教えなければならないと構える必要もありません。長く生きてきた分だけ、少なくとも私たちの存在がすでになにかを伝えているはずです。

一個の人間として純粋に興味のおもむくままにいろいろな年代の人と接する、その身軽さを満喫するのはきっと楽しいはずです。

実際のところ、若い人たちから見れば私たちははるか年長に感じられるのでしょうが、年長者である私たちは、若い人たちが感じているほどには年齢の差を感じていないものです。ときには彼らと肩を並べているような気さえするときがあります。

年齢の差の感覚というのは不思議なもので、年齢が下の者が年上を見るときには、年長者がはるか遠くに位置して見えるのに対して、年上の者が年下を見るときにはそれほど年齢差を意識しないもののようです。

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2016年10月28日

死に目を向ける

およそ九割の人が最期を病院で迎えるようになった今日、死は私たちの家庭の日常からすっかり姿を消してしまい、それとともに死を切実に感じることも、死の意味を自らに問う機会も少なくなってしまいました。

もちろん、誰もが頭ではいずれ自分にも死が訪れることを理解しているでしょうが、実感として死をとらえ、あえて死に目を向けることをしているでしょうか。

生まれた瞬間に死が始まり、つねに生とともに死があるということを、生きていることを実感するのと同等に感じているでしょうか。そのいずれもが希薄になっているようです。

死を実感しないということは、死と表裏をなす生の実感も薄いということにほかなりません。呼吸をし、食べ、働き、たしかに動いてはいるけれど、はたして「生きている」といえるでしょうか。

死を感じ、翻って生をたしかに実感することが、生を充実させ、同時に死に大きな実りをもたらすのだということに、気づいてください。

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2016年10月27日

苦しいときは無理をしない

人間は苦境に陥ると、なんとかそこから脱却しようとして無理をしがちです。

しかし、無理をすると肩に力が入ってあせります。

結果として普段の力を発揮できず、失敗するケースが多いものです。

苦しいときこそ無理をしないようにしましょう。

「なるようになるさ」といった開き直りも、苦しいときには必要なんです。
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2016年10月26日

増やすなら、微笑みのしわを

いずれ年をとり、深いしわが顔に刻まれようとも、いきいきと美しくありたいものです。

いつもにこにこと微笑んでいられるような毎日を送っていれば、顔にはいつの間にか微笑みのしわが生まれます。

老いるほどに一層、心の内面は顔に表れます。微笑みのしわを増やせるように、十分「気」をみなぎらせていましょう。「気」こそが、人を健やかに、いきいきとさせる源なのですから。
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2016年10月25日

素直に身軽に

「この二つを」

少食であれ
これは健康のもと
少欲であれ
これは幸福のもと
この二つのものをしっかりと身につけよう
この世を悔いなく終わるため
この世を楽しく生きるため


「石を思え」

腹の立つ時は
石を見よ
千万年も黙って
濁世(じょくせ)のなかに
座り続けている
石を思え

以上、坂村真民の詩です。

残りの人生、クヨクヨしないで、フラフラしないで、ボヤボヤしないで生きましょう。

水のように素直に流れ、雲のように身軽になって生きましょう。
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2016年10月24日

実践は足元から

「足元のゴミ一つ拾えぬ程度の人間に何ができましょうか」

「一つ拾えば、一つだけきれいになる」

これは、私が尊敬する森信三先生や鍵山秀三郎氏が言われた言葉です。

何事を始めるにも、大切なことは、一歩を踏み出す勇気です。まずこの一歩を踏み出さなければ、前に進むことができません。

どんなに優れた考えでも実行されなければ、栄光の女神も微笑んでくれません。

よいと思ったことはすぐ行動する。悪いと思ったことはすぐやめる。即行即止。

この実行力が人生を左右します。まず私たち大人が周りの子供達に見本を示めさなければなりません。
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2016年10月22日

捨てる修行

年をとると、どうしてダメになるのでしょう。これだけは自分が年をとらなければわかりません。

多くのお偉いさん達が年をとってダメになり、その栄光の人生を晩年になって汚します。そのわけは一言でいえば、自分を捨て切れないからでしょう。大変な修行をした人でも、その修行からきた名声地位を捨て切れずダメになります。

捨てるということがどんなに大事であるか、そしてどんなに難しいことであるのか。かつての柔軟な魂を喪失し、頑固さだけが残り、判断ができなくなるのです。

人間は修行を怠るといっぺんにダメになります、捨(しゃ)にも修行が大事です。

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2016年10月21日

辛苦を味に変える

「霜に打たれた柿の味、辛苦に耐えた人の味」・・・、軒端に吊るされた渋柿は冬の寒天にさらされ、霜に打たれることで何ともいえない味をだします。人間も辛苦に耐えることで人としての風味を増していきます。

しかし、柿は霜に打たれれば確実に旨味を増しますが、人間は辛苦に耐えればそれでいいのでしょうか。

辛苦を味わうことで人の痛みがわかり、思いやりに溢れた滋味を身につける人がいます。しかし、辛苦の経験が偏狭さとなり、傲岸不遜、悪どくしたたかになってしまう人もいます。

大事なのは辛苦そのものではなく、耐えるというその一語の重さにあります。

辛苦を味に変えるような人生をこそ、生きたいものです。
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2016年10月20日

健康感があればいい

検査機器に「病人」と判定されようとも、私たちはいきいきと「生」をまっとうすることが出来ます。

健康であることと、内的に健康感を持っていることは別なのです。

念入りに調べたら、年を取った私の心臓にも動脈硬化は多少あるに決まっています。それでも私はどんな朝もさわやかに目覚めます。すがすがしい健康感があります。それで十分であり、それこそが大切なのです。

暑ければ暑さに順応する、睡眠時間が足りなくても、今が踏ん張りどきなら、気力で乗り切る。ストレスを受ければ、それを上手にかわす術を見つける。年をとったために体の動きに支障が出てきたら、そのことに注意して行動する。

環境や状況はそのときどきに変わります。その変化に自分を上手に適応させられることは、健康であることの証です。

健康はつねに変わらない状態を言うのではなく、個々人にその対応が任された、応用自在なものなのです。
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2016年10月19日

人はどんな不幸にも耐えられます

心の平静は、避けようのない災難によってしばしば脅かされます。人はそれを不運とか不幸と呼びます。

しかし、本当の不幸は災難それ自体を言うのではなく、災難を契機に、一切の望みをもてなくなってしまうことです。

人間は本来どんな不幸にも耐えることができます。さらに逆境のもとでしあわせを実感することさえ可能です。これはひとえに希望のなせるわざです。

希望とは可能性を信じることです。

いまは嵐でつらくても、厚い雲の向こうに青空があることを信じて、雲が晴れるのを待つ心もちに似ています。あきらめではなく、控えめなのです。

それでいて希望は、それがどんなにささやかであっても、その人の心を明るくするのに十分です。

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2016年10月18日

よいかかりつけ医を見つけておきましょう

よいかかりつけ医を見つけ、その医師と信頼関係を築いておくことは、私たちの健康管理に欠かせないポイントです。

長いつきあいになるかかりつけ医は、相性がよいことが何よりです。

見立てがいい、腕がいいという周囲の評判も大事でしょうが、実際に医師にかかってみて、自分の勘を働かせるほうが確かです。

相性のよしあしは人それぞれですが、患者の話をよく聞く医師を選びたいものです。

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2016年10月17日

自分の健康は自分で守る

いのちの「器」である「からだ」を守ること、つまり健やかに生きることは、私たちの義務です。

豊かな時代になって、日本人が病む病気も変わりました、結核のように貧困や劣悪な生活環境が原因であった病気はすっかり姿を消して、高血圧、動脈硬化、脳卒中、心臓病、癌が大半になって来ました。

病気の根は、めいめいの若いころの過ごし方にあるから、「成人病」と呼ばれていたこれらの病気は「生活習慣病」というように直されました。

動脈硬化などは二十歳頃から始まることがわかっています。誰が病気をつくっているのかと言えば、自分なのです。自分でつくる病気です。食事、嗜好品、運動、仕事、睡眠、そうした日常生活のありかたを見直し改めれば、一生、発症せずにすむかも知れないのです。

かからなくてもすむ病気にまで医療費を使うのは、大いなるロスです。自分の健康は自分で守る。

医者まかせ、他人まかせにしないこと。これが基本です。・・・(大いに反省・・・)

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2016年10月16日

耐えがたい苦痛があれば

いよいよ最期という患者に耐えがたい苦痛があれば、モルヒネを使って患者の痛みを取り除き、死への不安が大きくて夜眠れないという人には睡眠薬を処方してもらい、よく眠れるようにしてもらったほうがいいのかもしれません。そうすることが、患者が人間らしい終末を迎えるためにどうしても必要だと思うからです。

癌の末期にあらわれる激しい痛みも、モルヒネを使えば楽になります。モルヒネはこわい薬だという誤解が医師のあいだにさえあるというのは憂うべきですが、モルヒネは上手にコントロールしながら使えば、患者がただ痛みから解放されるばかりでなく、患者に知性や感性を取り戻してくれます。

痛みがなくなれば、死への恐れからも解放されます。

この耐えがたい苦痛が極まったところに死があるのだろうと患者は想像していますから、痛みが激しさを増すほどに、死に近づいているという恐怖感は募ります。

ところが、死を連想させる激しい痛みからまったく解放されてみると、患者は自分が「死に向かっている」というよりも、「今を生きている」という実感を味わえるようになります。生のぎりぎりまで「生きる」希望が湧いてくるのです。

苦しまずにすむ痛みなら、苦しまないほうがいいのです。それは、間もなく死を迎える本人のためだけではなく、残される家族のためにも、そうすることが望ましいと思われます。
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2016年10月15日

不幸には敏感、幸せには鈍感

まさに人生の成功者と見受けられる人にも、はたからはうかがいしれない悩みや苦しみがあります。

人生に問題をかかえていない人などいません。

他人と比較して自分の苦しみや悩みの方がましだと思うのは、さもしいことのようですが、それでも悩みの渦中にある当人には気持ちを切り替えるきっかけになります。

人はえてして自分の不幸には敏感なものです。小さなトゲが指に刺さったくらいのことでも、自分の不幸となると、その十倍、二十倍にも痛みを感じます。不幸を実感するのはたやすいのです。

では、不幸がなければ幸福なのかと言うと、決してそうとは言えません。誰もが幸福を望みますが、それを実感することにきわめて鈍感です。
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2016年10月14日

いくつになってもはじめることを忘れない

年齢に臆して引き下がるような生き方を、してはいけません。私たちの中に隠された無限の才能は、毎日、引き出されるチャンスを待っています。そのチャンスに気付かず、行きちがってばかりいる人生で終わりたくはありません。

チャンスのなかには、喜びをもたらすものばかりではなく、試練と呼ぶほうがふさわしいものもあるでしょう。それでもなお、果敢に挑戦できるかどうか、未知なることへのチャレンジには、高みからダイビングするような勇気と決断が必要です。

自分の体力や気力を思うと、若い時分より、その高さは余計に高く感じられ、足がすくみそうになるかもしれません。

そうなると、自分を信じることだけが頼りです。たとえ老いていても、病んでいても、あるいは他人にそしられようとも、自分が善いと思う方向に一歩を踏み出す、自分に、エールを送る強さが必要です。

自分を信じて挑んだ結果が失敗に終わることもあるでしょう。それでも、チャンスに賭けた勇気ある行動には、大きな意味があります。決して無駄でもなければ、後退でもありません。精一杯に生きた足跡は、意義深い「過去」となります。「過去」は過ぎてなくなるわけではなく、「過去」としてあり続けるものだということを忘れてはなりません。
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2016年10月13日

基準値に振り回されない、自分が「健康だ」と感じること

健康診断の検査データにおける、基準値や平均値に私たちはとらわれやすいのですが、基準はあくまで目安であって、あなたの最適値ではありません。

高齢者の定義というのも、四十年ほど前は五十五歳で「老人」と呼ばれていましたが、診ている医者たちが五十五歳に近くなると「いや、六十歳くらいが妥当かな」となり、さらに医者が六十歳を迎えるようになって、「いやいや、六十五歳からだろう」と。今に高齢者の境は七十歳になって、七十五歳になるでしょう。

このように、基準は絶対的なものではありません。「六十五歳を過ぎたから、もう老人だ」と、自らの老いを認めてしまわないことです。「コレステロールはここまで抑えなきゃ」とか「これは、こうでなくちゃ」と健康基準なるものにがんじがらめになるのも愚かしいことです。

数値にあまり振り回されないのも、生き方のコツです。

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2016年10月12日

医学はもっと人に全人的なタッチを

多くの人の期待に反して、医師が治せる病気はそう多くはありません。医学が進歩したとはいえ「治せる病気」はまだまだひと握りにすぎません。

「現代医学をもってすればどんな病気からも救われる」という錯覚に、医師も患者もとらわれすぎています。

患者に検査や注射、手術という苦痛を与えておきながら、「病気を治すためだから、苦しくとも辛抱しなさい」と我慢を強いてよいのでしょうか。

完全に治せる病のほうが少ないばかりか、人間はいづれ死ぬのです。そうであるなら、許された年限を、できるだけ快適に、苦しみが少なく、不安にさいなまれずに生きていくことのほうがはるかに問はれてしかるべきです。

予測される副作用が、患者のその後の生にどれほどの精神的負担や苦痛を与えるかを十分に考慮せず、病そのものを治すことに心を奪われてはいけないのです。
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2016年10月11日

からだは休みなく、切れ目なく使い続ける

年をとれば、からだも頭も老化します。けれど、老化は避けられなくても、だめにしないことはできます。要するに使い方です。使わなければ頭もからだもだめになります。毎日、休みなく、切れ目なく、使い続けることです。

私たちのからだは、動かしながら使いながら、同時に調節したり治していくことができるようにつくられています。

健康には、何よりも良い習慣が欠かせません。いつか、いつかと頭で考えているだけではだめなのです。

今日の一歩を踏み出すこと。なぜなら、健康は行動の結果です。健康は実践のなかにあるのです。

病気を治すことに主眼を置く医学に、あなたの健康のことまで期待するのは筋違いです。

めいめいが生活のなかに実践するしかありません。
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