2016年10月10日

病気があっても健やかに

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という言葉はよく知られていますが、これはローマの詩人ユベナリスによる「健康な身体に健全なる精神を宿らせ給え」という祈りの言葉であったようです。

からだが健全だからといって、そう簡単に健全なる精神がついてくるわけではありません。健全な精神はやはり得がたいものです。

けれども、肝心なのはからだより健やかな精神あるいは魂というのが本来の意味です。

老化によるからだの衰えや、不幸にして治る見込みのない病に見舞われても、私たちは、「欠陥があるにもかかわらず健やかである」という生き方を求めていくべきだと思います。
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2016年10月09日

周囲に伝播させない

「苦しみは、人に打ち明けることによって半分になり、喜びは人に話すことによって倍になる」とよく言います。

喜びはともかく、苦しみは人に打ち明ければ、苦しむ人が二人になるだけのことです。

苦しみはできるだけ自分一人で背負い込み、周囲の人まで巻き込まない。周囲に伝播させない。

自分ひとりがわが身に引き受ける。

そんな生き方が、見失ってはならない大切な作法なのかもしれません。
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2016年10月08日

深める

人が行き詰るのは、いつも同じことを同じやり方でしているからです。

人と同じことをするのは何も考える必要がないぶん、楽だけれども必ず行き詰まります。

行き詰らないためには、広げるのではなく、深めることです。深めると、自然に広がるようになります。

いい物と深く接し、いい人と深く交わること。

心すべき生き方だと思います。

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2016年10月07日

自分でできないことは諦めること

生きものを飼うというのは、容易なことではありません。それは生命に対しても責任を持つ、ということです。

枯らしてしまっていい鉢植え、殺してしまってもいい小鳥などという概念は、それらの行為とは結びつかないものです。

老いて、一人暮らしをすると、愛情をかけるものが欲しくなるのは当然でありましょう。

花壇を作ったり、犬を飼ったりしている老人は、心身ともに若いことが多いものです。

しかし、自分の体力がそれを維持できなくなったら、諦めるほかはありません。若い世代からみれば、老人の面倒をみるのさえ一仕事なのに、犬や植木までなんて、ということになるのですから。

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2016年10月06日

老年は一つの経過に過ぎない

老年というのは、経過なのです。初めから老人に生まれるという人は特殊な病人でないかぎり通常はありえません。

それを考えずに、老年だけを切り取って、問題にしようとする時、そこでは、人間は自己を喪失し、老年の絶望と告発が生まれます。

人間の一生を(神から与えられた)一つの時間の経過として見ることをしないで、ある人間のある一時期だけを個別に取り出して問題にするかぎり、能なしの老人が、ひどい扱いをされるのは、むしろ当然と言わねばなりません。

しかし本当は、人間の一生において、成長期が必要なように、人間の精神の完結のためには、凋落の時期もまた不可欠なものなのです。

この不完全性、逃れがたい悲しみを、どんな人間でも実感として得られるような仕組みが老年という形でできているからこそ、人間は人間として、人並みに悩み、考えることを知ったのです。

それゆえに、凋落というのはむしろ、人間に対するおおいなるもの(神の)愛でさえあるのです。
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2016年10月05日

尊敬に値するか?

確かに、年寄りに対する態度の悪い人間というものは、世の中に多い。それはこと年寄りに対してばかりではありません。

一般に、他人に対する思いやりのない人というのはいますが、それは必ずしも心がけが悪いばかりでなく、思いやる能力が欠けているのです。また最近では、誰に対しても、礼儀正しくするというのはどういうことなのか、全く教わって来なかった、という若い世代もいます。

自分に対してバカにしたような態度をとるということは腹の立つことでしょうが、年寄りの中には、それを頭ごなしに叱りつけて改変させようという気持ちになる人が時々います。

尊敬は決して、暴力的な力で勝ちとるものではありません。尊敬は尊敬に値する行為をできる者にだけ与えられるものです。視力も聴力も運動能力も、何もかも失われた人でも、他人に尊敬を覚えさせずにはおかないような威厳を持つことはよくあります。

それは、その人が一生かかって何かを追い続けてきたという実績であったり、何の特技もなくても慎ましく他人に感謝することを知っていたりする賢さに対してです。

尊敬や礼儀を義務として守らせようとすることは大変むずかしいことです。人間が相手を屈服させようとしたら、それは自ら努力して、そのような人間関係を作るほかありません。
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2016年10月04日

捨てれば追い風が吹きます

人生の折り返し地点(前半生)までは、努力して頑張ることが追い風になってくれます。

ところが、後半生(折り返し地点を過ぎると)では、努力して求めれば求めるほど、同じ風が今度は向かい風になります。

逆に捨てていくことが追い風になってくれるのです。

この「捨てる」というのは、物ではなく、「心」の話。

自我、欲望、要望、欲求、執着、そういうものを、捨てれば捨てるほど、後半生が楽に生きられるようになります。

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2016年10月03日

自分がどう生きるか

自分がどう生きるかではなくて、自分以外の人をいかに自分の思い通りにするかということが、自分の「悩み」だと思っている人が増えているようです。

自分以外のものを自分の思い通りにするという考え方を全てやめましょう。

自分がどう生きるかだけをまず考えるようにしましょう。

ところで、世の中はすべて「空」。「不幸も悲劇も存在しません。そう思う心があるだけ」です。

同様に、「幸福」という名の現象も存在しません。現象としては全て「空」なのです。

それを「幸福」と思うか「不幸」と思うかは、すべて「私」の心しだいなのです。
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2016年10月02日

尊敬されていますか?

上司だから偉くて、部下がコントロールできるのではありません。

親だから、というだけで、全く無条件に子供が言うことを聞くわけではありません。

同様に、先生が上だからといって、無条件に生徒が言うことを聞くわけではないのです。

常にそこには「尊敬」という概念が必要です。

それがあれば、上下関係は、スムーズに流れます。

逆に「尊敬」の概念がなければ、必ず行き詰まります。

おとうさん、おかあさん、あなたは尊敬されてますか?
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2016年10月01日

苦しさの中に喜びを見出す

「私はこんなにひどい状態で、ひどいことばかりで・・・」と指折り数えているうちは、ぜんぜん喜べるものはやってこないでしょう。

自分にとって不愉快が永久に続きます。

大変かもしれないけれど、そのなかであえて喜びを見いだす訓練をするのです。

愚痴や泣き言を言わないで喜びを口に出せるようになると、事態が急転するように世の中はなっています。
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