2020年08月12日

若いうちから、よく脚(あし)を鍛えておくこと

歩くということは、ただ単に、一つの地点から一つの地点へ移動できるという能力以上に重大な意味を持っています。

歩くということは、第一に健康にいいのだが、それ以上に歩けるということは、人並みだということの最低の保証であります。

歩くことによって人間は、自分が入って行ける世界を拡大することができます。新しいものが見られ、珍しい体験ができ、知らない人と親しくなれます。これが続くかぎり、人間は孤立することがありません。

何か事あるときには、身一つでどこまでも時間をかけて歩いて行けばいいのだ、と思える人は、この世に恐怖感を持つことが少ないでしょう。恐怖感を持たないですむということは、心理的に防衛一辺倒のエゴイズムに陥らずにすみます。ここが大事なところです。

若いうちからタクシーばかり乗りたがる人がいますが、老後のことを思えば、それは不養生をしていることになります。また既に老年にさしかかっている人は、今からでも脚(あし)を鍛え始めなければなりません。
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2020年08月11日

自分は丈夫である(若々しい)と考えなさい

あなたは「自分は若々しい」と考えることも自由であり、また「自分は年寄りくさい」と考えることも自由です。そして、あなたはその思い通りになるのです。

あなたは自分の体を丈夫だと考えることもできます。そうすると体が自然に丈夫になります。

あなたは自分の体が弱いと考えることもできます。もしそう考えれば、自分の体が弱くなります。

あなたは若々しくありたいですか。それなら、「私は若々しい」と常に考えるようにしなさい。

あなたは体を丈夫にしたいですか。それならいつでも「私の体は丈夫だ」と考えるようにしなさい。

心に思う力ほど強い力は他にはありません。

自分を体の弱い、力のないつまらないものだと考えれば、その通りになります。自分を体の丈夫な、頭の良い、立派な人間だと思えば、その通りになるのです。

あなたが心で思った通りのものが、あなたの姿になるのですから、これからは必ず善い事ばかりを心の中で考えるようにしましょう。
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2020年08月10日

「想い」が形の世界に実現する


あなたが心に考えることは、それが形の世界に実現する素(もと)になります。あなたが心に考えたことは、大小となくことごとくあなたの肉体の形の上にあらわれてきます。

だから同じ成分の食事を摂りながら、自分を「老人」だと思っている人は、頭に白髪を造り出し、顔に皺(しわ)だらけの皮膚を造り出すのですが、「自分は、まだまだ若い」と信じている人は、年のわりに老いず、七十歳を越えてからでも「人生は七十から」と、若々しい相貌をしていられます。

心の中に、病的な思想、想念、感情を持っていると、あなたの喜びを奪い、楽しさを奪い、健康を奪い、若さを奪い、命さえも奪って行くのです。

あなたが健康や、若さを大切に思われるならあなたの心の中に「病い」の想念、「心配」の想念を、利己的な想念を、憎しみの感情を、争いの感情を、嫉妬の感情を、忍び込ませないようにしなければなりません。

明るい言葉、楽しい語調、晴れやかな表情は、楽しい感情を呼び起こし、全身の血行をよくし、心臓の運動を軽快にいたします。
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2020年08月09日

よき種を蒔く

この地上に生を受けた者として果たしていくべきことは、よき種をまいていくこと。

決して憎しみとか、悲しみの種をまいてはならないということです。

生かしていただいていることに感謝できる人生を築いていくこと。

少しでも人様のお役に立つことをなして喜びの種をまかせていただきましょう。

「喜べば喜びが、喜びながら喜び事を集めて喜びにくる。

悲しめば悲しみが、悲しみながら悲しみ事を集めて悲しみにくる。」

どこかで読んだ言葉です。喜びの種をまく人生を送りたいものです。
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2020年08月08日

喜びの種をまく

寝たきりで、すべて人の手を借りる暮らしをしていたおばあさんがおりました。自分が不甲斐ないのか、世話を受けながらいつも不機嫌でした。

ある時、一人のお坊さんから、お金、財産がなくても誰でも七つの施しができるという「無財の七施」という話を聞きましたが、「でも、私はこんな体で人に与えられるものなんかありません」と言いました。

お坊さんは、「あなたにも与えられるものがあります。人にしてもらったら、手を合わせて、ありがとうと言えばいい。言われた人はきっと喜びますよ。感謝のひと言で喜びの種をまくことができます」と言いました。

おばあさんは、涙を流して喜んだといいます。人は日常のささやかな行いによって喜びの種をまき、花を咲かせることができます。
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2020年08月07日

感謝して見送る


人にもよりますが、友人の死に対しては、意外とショックを受けてないように見えるお年寄りも多い。

若い者から見ると、友人が死ぬということは、心の流露を受けとめる相手がなくなることで、どんなにか辛いだろう、と思うのですが、年を取るということは、その淋しさをもあまり感じなくてすむようにしてくれるのかもしれません。

友人に先立たれる場合のことは、夫あるいは妻に先立たれることと同様に、常に事前に、繰り返し繰り返し予想することが大切です。

そうすると、やって来た運命に対して、心構えができています。いよいよ別れるのだ、と嘆くよりも、何十年か楽しく付き合ってもらって、ありがたかった、と感謝すればいいのです。
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2020年08月06日

あとは、自分の知ったことではない




老人の間で常に問題になるのは、自分の持っているお金をどのようなテンポで使っていったらいいか、ということです。

早く死ぬつもりが、長く生きすぎて一文無しになって余生を送らねばならぬと困る、という口実のもとに、爪に火をともすようにして、倹約して暮らし、ついに自分の貯えたお金の恩恵をまったくこうむらずに、何もしてくれなかった甥や姪に残して死んでいく老人がいかに多いことでしょうか。それは、ほんとに滑稽なことです。

九十まで生きるつもりで、それで使い切るように計算して、あとは、自分の知ったことではない。

それだけ生きれば、あとはどうされてもいいではありませんか。なんとかなります。世間はそんなに非情でもありませんよ。
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2020年08月05日

若い世代は自分より忙しいと考えておく

現役にある世代は雑用に忙しい。それを思いやることができなくなった時、私たちはかなり老化が進んでいる、と思うべきです。

老人が、自分が暇であることを中心に考えて、他人に簡単にものを頼むことは、ほんとうはかなり自戒しなければならないことなのです。

「ちょっとしたことだから」と老人は考えます。

もちろん誰もが、人にものを頼まずに生きることなどできません。だから頼む時は「ちょっと」のことだと思わずに頼むことです。

そういう自覚があれば、時には人の手間に対して、お金で報いようと思うかもしれないし、金銭で報いなくても、深い感謝を言葉に表すことになります。

「普通ならして頂けないようなご好意を頂きました」
と礼を言えるのです。

その時初めて、年齢のうえの、若さと老いとの隔たりは取り払われ、そこにいるのは、感謝と世間の状況をよく知った賢い人たち、という間柄が成立するのです。
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2020年08月04日

明るくふるまう

愚痴を言って、いいことは一つもありません。

愚痴を言えば、それだけ自分がみじめになります。

「ひがむ」のもあまりに凡庸だから、意識してやめることです。

体が悪くなり、能力がおとろえ、友人が死んでしまったら、暗く悲しい思いになるのも当然でしょうが、当然だから、そのままそのような顔をしていていいということはありません。

明るくすること、心の中はそうでなくても、外見だけでも明るくすること。

明るくふるまうことは、世間への礼儀です。
posted by 田村 季山 at 03:09| Comment(0) | 健康・老い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月03日

食物への感謝

ただ今私のお膳にすえられた一杯のご飯、これは私の今日の命の糧、活動の根元です。

これが無ければ生きてゆけないとわかった時、食物に対してどんな心持ちでいるのが最も正しく、間違いない心構えであるかか、すぐわかります。

ここに食物に対する感謝感激の心持ちは自然とわいて来て、食物を通して天地の恩がしのばれ、やがて社会の恩、または生命の根元である父母・祖先・・・神仏のご恩まで、ひしひしと身にせまってまいります。

こうした美しい自然の愛情の上に立って生まれてきたのが、食事の礼儀であり作法なのです。
posted by 田村 季山 at 03:02| Comment(0) | 健康・老い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする